2007 |
11,22 |
いよいよワークショップが間近だ。
鈴江です。
僕はつい先日、ニューヨークにいってきたんだけれど、それは私の作品がドラマリーディングという形で発表されるから、それを見に行ってきたんだけれど、なかなか刺激的で。作品は「ともだちが来た」。タイトルは「My friend has come」。当たり前といえば当たり前のタイトルだ。それだけに深い!……なんて自画自賛。
要するに台本を持ったままの芝居、基本は朗読だけ、というステージなのだが、稽古は立った二日間。たいていそんな稽古日数で数十人のお客さんの前に立つ、ということが欧米での慣習なのだが、その稽古に一回だけ立ち会った。
欧米の役者は訓練期間が長い。そして濃密だ。米国でプロの俳優になるのは、ほぼ必ず、演劇専門の大学院を修了する必要がある。しかもその修了公演を主役級の配役をされてないとエージェントの目にとまらない。エージェントが「うちに来てほしい」という――→労働組合に加入する――→健康保険などの権利が手に入る/演劇のプロデューサーたちが採用する役者のリストに載る、というような段取りでプロになるのだ。そこまで来るのに相当な競争、淘汰が行われる。
例えば演出を担当したジェイムスさん、この人は現役のブロードウエイの俳優だけれど、大学は文学専攻。大学院から演劇。100倍ほどの競争率。米国中の大学に演劇専攻の大学院はあるけれど、どこに入ってもいいというものではなく、数箇所しかない、「プロのエージェントが卒業公演を見に来る大学院」にはいらないと、プロにはなれない。もちろんだからそういう大学院になると競争率は高くなるのだ。で、入ったのち、大学院は厳しい。10人入学したうち、7人しか修了しなかった。そのうちエージェントが採用するのはゼロから数人。採用されたからって皆がそれで、演劇だけで生活できるかというととんでもない話で、ストレートプレイ<ミュージカル俳優<映画俳優<テレビ俳優、のような感じでギャラの単価の格差があるらしい。役者として最も濃密に、自由で深くとりくめるのがストレートプレイだと鈴江は思うのだけれど、現場での役者の扱いがもっともアーチストとして尊敬されている感じなのがストレートプレイなのだけれど、やはりあっちでもこっちでも芝居で生計を立てるのは困難らしくて。
まあそんなこんなで、とにかくそこにいた役者さんたちは厳しい淘汰を生き残った大学院修了のインテリたちだ。役者、っていうのは、相当知性が高くないとなれない職業だ。彼らは議論ができる。本を大量に読んでいる。戯曲をどう読むか、語らせればすぐ1時間くらいの講義ができる。だから演出とのコミュニケーション、やりとりは相当濃密に、短時間に要領よく行われる。指示、そしてそれにうなづく、てな程度のものではない。提案、理解、逆提案、試してみよう、そして稽古、それについての検討、理解、別の提案、その検討、理解、また別の提案、それ試してみよう、……そして、その議論の中味をきちんと反映した抜き稽古なのだ。議論は立派だけどやることはちっともバリエーションがないこちらの稽古の様子とはやはり悲しいくらい違うのだ。役者が演出の言わんとしていることを理解するのが速い。そして実現してしまうのが小気味よい。理解する脳みそと、発案する脳みそと、実現してしまう肉体と、両方兼ね備えているのが、もううらやましくてしかたない。日本ではこんな役者さん見たことないよなあ……といくたびに感じるのだ。悲しいけれど。そして私の周りの役者さんだけは例外なのだけれど。えへへ。
演劇を作るのは役者だ。もう、それは間違いない。
役者を造るのは訓練だ。もう、それは間違いない。
訓練を考えるのは、役者たちだ。そして演出だ。未来はあり、希望はあるのだ!
nyにお芝居を上演しにいく未来を考えたりした。摩天楼の足元をふらふら歩きながら。そんな役者を、日本で、京都で、育てたい、出会いたいのである。
お待ちしてます。ワークショップで。
写真はnyの朝。リーディングは今日行われる。寒いだけじゃない理由でふるえてた。