2009 |
04,08 |
«さくら»
とんでもなく桜が咲いている。
っていう感情が、今年も私のところにある。
毎年見ているのに、どうしてこう、この桜っていう木は一気に派手に圧倒的に咲くのだろう。
毎年感心してしまう。
しかし古代はこの木をこんなにありがたがって鑑賞する習慣はこの土地にはなかったらしくて、むしろ梅のほうをありがたがっていたのだという。
最近アメリカの人と文通したら、「私は今年が初めての花見でわくわく」と書いてきてくれた。日本に住みはじめて一年目の方だ。ということはかの地にもその習慣はないのだ。
これだけ派手にこんなに木を並べて植えたからこそ、の、この圧倒的な風景なのだ、ということなのだろう。私たちの周りにある風景は、自然のものに見える木でも草でも川でも山でも、原始の自然がそのままというわけではない。人が昔に手を入れたそれが「美しいものだなあ」と感じるもとを作っていて、ということはつまりその感受性自体が、むかしの人が手を入れてこしらえた、というものになるのだきっと。
うつくしい、と感じているのは確かなつもりなのにこの感情は自然ではなくて不自然だということ。人工的な歴史的にこしらえられた感じ方だ、ということ。
これはなんだろう。
……などと考え込んでしまったら生活の感覚のいちから十まで疑わしくなってしまう。いやきっと世界は疑えば果てがないほど疑いがいのあるものなのだ。
じゃ人を恋するとは?人を欲するとは?人が人を求めるとは?実際に人がいないと人は存在が難しいほど苦しむではないか。これは?
……そんなことを考えながら、きっと今日も稽古場で私は芝居を見つめる。
役者が二人、そこに向かい合っている。
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